松井紀潔OB(奈良出身、米国カリフォルニア在住/S36/米1)から営農研究会での基調講演原稿をいただきましたので、皆さまにご紹介いたします。
平成20年度東海近畿北陸ブロック国際化対応営農研究会・基調講演
世界をめざせ! 日本の農業者
米国カリフォルニア州 マツイ・ナーセリー社長
松井 アンディー(松井紀潔)
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1.マツイ・ナーセリーの40年
私は1961年に第10回の農業実習生として渡米しました。25歳でした。私たちは時給85セントでしたが、1ドルが360円の時代でこれは有難い給料でした。
翌年の8月にはまたカリフォルニアに戻って菊の栽培農場で働きました。1966年にはアメリカの永住権を得て、その翌年に1.2haの借地で大輪菊の栽培を始めたのです。
A.菊栽培の事業計画
このとき私が持っていたのは日当働きで貯めた五千ドルだけだったのです。しかし私には明確な事業計画とコスト計算がありましたので、銀行からの無担保で1万ドルの融資がついたのです。この最初の菊栽培は借地で4人の労務者を雇いそれに私たち夫婦との6人で始めました。ただ私は四年半という菊栽培の実地の経験と、そして栽培技術とコスト計算、それと私の独自の経営計画を持っていました。また他の農場ではやらない販売方法も編み出していました。
この3年間の借地栽培で残した4万ドルを頭金に、私はサリーナスの町外れに20町歩の畑を買い求めました。近所の花栽培者達は平均3haの土地しか買わない頃に私はそれの7倍も買ったのですから同業者から村八分に会うのは自然なことでした。しかし私には数字に基づいた事業計画と、世界一の規模のキク栽培を作り上げる戦略があって、総面積13町歩の新しい温室を10年計画で建て始めました。知人達は笑いましたが銀行は私の計画に賛同して必要な額の融資をつけてくれたのです。そしてこの13haの温室を、予定通り10年で建て終えたのです。もしこの私が10年計画というものを持たずに成り行きで増築をやっていたら、私のキク栽培はいい加減なものになっていて、将来の進展もなかったと思います。
このときの私の菊栽培の戦略は、1)品質の高いものを市場に周年供給すること。2)委託販売でなく、庭先渡しの値をつけて売ること。3)総売上げの2割の純益が出るような価格設定をすること。4)卸店は1都市1店を原則とすること。これは2店以上に出荷すると値引き競争が起こり、市場が混乱するためです。5)また各店ごとに毎週の出荷量を事前に取り決めた周年販売を基本とすること。6)箱売りの出来る出荷箱を使うこと。これらが私の菊の事業計画でした。このやり方で売っていくので大体6ヶ月先まで、まだ作付けられていない菊にまで注文がついていました。
この10年計画の13haの温室建設を終えた時点で、私は全米の大輪菊の15%を握り、市場価格をコントロールしていました。私が値段を上げるといえば上がり、下げるといえば下がるのです。工業製品では15%のシェアでは価格操作はできないそうですが、園芸作物のようなもので、高品質のものを15%握れば価格操作が出来るということを、このとき発見したのです。
切り花菊の商売は予想以上に順調にゆきまして、これを始めて8年目には小さい自家用機も買えるまでになったのです。しかしこの私と同じ地域で、同じ年代に他に10軒もの菊栽培者が商売を始めましたが、彼らは旧来の方法で委託販売を行い、栽培規模も1〜2haと小さく、大した商売にもならずに、最後には南米からの安い輸入品に負けて消えていったのです。何がこの違いを出したのかと云いますと、それは私には最初からこの菊栽培で成功できる“戦略”があったからです。「ただ誰でもまじめに商売をすれば成功する」というほどこの世の中は甘いものではありません。勝つための、ユニークな戦略があって、初めて成功できるチャンスが得られるのです。
この間に私はアメリカの“ポット・マム”の栽培を日本に紹介し、“日本ポット・マムの会”を設立して、その数年後には会員も160人を超す規模にはなりました。しかし第1次、第2次の石油危機で暖房費が急騰しまして、その後は日本に“ポインセチア”の栽培を導入しました。その頃、私が誠文堂から発刊しました「ポット・マムの栽培と経営」と題した5千部の本は、日本の戦後の温室花卉栽培の基礎を作ったといわれるもので、国内だけでなくブラジルやアルゼンチンなどに移民された人達の鉢花栽培の指導書にもなったのです。
B.バラ栽培の事業計画
1980年代も終わりに近づくと、石油危機に端を発したインフレが進み、大輪菊の市場にも薄雲が掛かりそうになりました。私は早速、菊よりも将来性の見込めるバラへの転作の6ヵ年計画を作り、栽培技術者を雇い入れてバラ栽培に取り掛かりました。菊では大きな利益を上げていたので、転作の資金は十分ありました。
しかしバラは菊と違ってアメリカ国内の主要な都市の近郊には古くからのバラ栽培者がいて、すでにそれぞれの市場を押さえていました。またカリフォルニア州内には将来のバラの市場を見越した大、中規模の栽培者が増え始めていました。
この時点での私の新しいバラ栽培の戦略は、1)夏の涼しいサリーナスの気候を味方にして出荷の重点を夏にして、新しいバラの市場を開拓する。2)新しく作出された品種の“ベガ”を基本品種にして、毎年20万株の予約注文を3年分入れて独占的にこの品種を栽培する。3)販売市場は菊の販売で固めた卸業者を優先する。
こうして私は75万株のバラ苗を予定どおりの6ヵ年で植え込み、アメリカのバラ市場の新しい旗手となることができたのです。
この私のバラ栽培は、最初の5カ年間は申し訳ないくらい儲かりました。ある年などは売上げの30%以上が純益として計上されました。ぺブル・ビーチに茶室のついた新居を建て、飛行機を買い換えたのもこの頃でした。
しかし、もし私が何の戦略も考えずに近所の人たちと同じように、皆が植えつける同じ品種を植え込み、皆と同じようにバレンタイン・デイと母の日を狙う栽培をやっていたなら、恐らく私のバラ作りも大した利益の出ないもので終わっていたことでしょう。何の事業でもこの様にまず戦略を立てて取り掛るべきなのです。
最初は調子のよかったこの私のバラ栽培も、88年頃から南米のコロンビアとエクアドルからの輸入攻撃を受けそうな気配になりました。私はこれをかわすために、販路を花の卸屋から宅配便を使った直売に切り替え始めました。しかしこの頃はこの様な商売も目新しく、祝日や祭日には捌ききれない注文が入るのですが、ほかの期間は動きが鈍いのです。私はこれを乗り切るために、セブン・イレブンを皮切りにスーパーへのバラの花束攻勢をかけたのです。このスーパーでの花束販売も目新しい商売で大きな注文が入るようになりましたがまたすぐ競争相手が真似て出てくるのです。
そこで私は単にバラのマーケティングを替えるだけでなく、バラの花をドライにして用途を広げることを考えたのです。それも単なるドライでなく“冷凍真空乾燥”という新しい技術を使ったものでした。コンサルタントを雇って冷凍真空乾燥した花を外気の湿気から守るためのコーティング材料の開発に多額の資金を投入しました。こうして最盛期には年間1千万本以上もの“フリーズドライローズ”を日本を始めとしてヨーロッパ市場に1本1ドルというような値段で輸出して、大きな利益を上げることが出来ました。
しかしこれらのいずれの方策も、単なる思い付きで始めたものではありません。それらは系統的な戦略として、投資効率を考え、花栽培を企業として経営して、そして成功させたのです。さらに私にはこれらの戦略を成功に導かせられるだけの経営規模を持っていたということが大きな原因だったのです。どんなに優れた戦略があっても経営規模が小さければ成功に継がらないことが多いのです。
南米からの切花の輸入が急増し始めた1991年からは豊富な資金を活用して、総面積160haの農地を買収して、ユーカリを主体にしたグリセリン加工でのドライフラワー生産に力を入れました。
しかしいずれにしてもこれらの商売は“切り花”を基本としたものでした。コストの安い南米との競争は激しくなるばかりで、先が見えてきましたので、1994年には3回目の作付け転換の準備を始めたのです。
私は“世の中は常に移り変わっていくものだ”ということを念頭において事業を進めています。この世の中、大抵のものは10年から12年ぐらいのサイクルで変わっていきます。花の世界でもこれは同じことです。儲かる事業を長期間続けて行きたいのならこの潮目を読むことの大事さが解るはずです。商売の切り替えは早い方に勝ち目があります。切り替えを早めにということは、その時期ならまだいま作っている作物が儲かっていて、切り替えの資金があるということです。財布が底をつきますと、やろうとする気力がまず出てきません。
今度の私のランへの切り替え準備には4年半の時間とエネルギーとそれに1冊のパスポートを使いきるほどの旅費と時間を費やしました。アメリカでの今後の花作りは輸入の出来にくいものに限るというのが私の持論で、そして将来性の高いものとして選んだものはランの鉢栽培でした。
C.鉢植えランの事業計画
今から10年前には、アメリカには日本やオランダのような胡蝶蘭の周年栽培というものは無かったのです。自然開花のものを趣味家が買っていく程度で、シンビの切花を除いては大規模な生産者はいなかったのです。鉢植えのランは輸入品との競合も無いばかりか、その当時は店に出ている他の鉢物も目新しいものはありません。新しい種類と技術を導入して、大規模栽培で消費者が手を出せる価格で量販店のルートに乗せれば、ここアメリカでは巨大な市場を開拓できるというのが私の考えでした。その頃オランダでは、このランの鉢物を手軽な贈り物に位置づけようとしていました。また日本では、高価な贈り物としての市場を中心にしておりましたが、これを真似ようとは思いませんでした。私の考えは、今まで手の届かなかったアメリカの家庭の主婦に、この新しいエキゾチックなランの鉢花を台所や寝室に飾らせて、一般家庭で楽しめる習慣を着けさせようと考えたのです。それによって大きな周年需要が生まれてくるし、もちろんギフトにも発展させられると私は思ったのです。アメリカの一般家庭とひと口に言ってももちろん貧富の差は大きいはずです。そこで私はランを3号、4号そして5号と三つのサイズの鉢で栽培し、商品の幅を大きくする方法を考えだしたのです。
ラン栽培の第一次計画は1998年の春から始まりました。このとき私は63歳でした。私には子供は4人いますが、長女が田舎の高校からハーバード大学に入ったのです。それで後の3人を捕まえて「ハーバードに行けない奴が花屋の跡取りだ」と宣言したのです。それに恐れをなして4人とも全員がハーバードを出たので、結局この私が自分のやりかけた仕事を自分で継いだのです。でもこれは正解でした。というのは跡取りに継がしても良いところ30年です。この頃は寿命が延びているので60歳で自分の後を自分で継いで、それで30年やってもまだ90歳です。私はいま73歳ですがあと27年はやると宣言していますし、自分で自分の後を継いだのですから、もちろん親子喧嘩の必要もなく天下泰平で、精神衛生上これに勝ることはありません。
さて、私のランの第一次計画は台湾から75万株の胡蝶蘭の大苗を輸入することから始まりました。これと平行してタイのフラスコ業者と組んで自家育苗に取り掛かりました。これは数年後には年間4〜5百万本という数の苗が毎年必要で、これだけの苗を世界中から集めるのは不可能だったことと、更に自家育苗によってランの生産コストを下げるのが狙いでした。
第二次計画はこの胡蝶蘭の生産を50%増やすと同時に、オンシジューム、デンファレ、それにノビルを加えて年間出荷量を100万鉢とすることで、これは予定通り2001年にクリアすることが出来ました。またこの年からシンビジュームの25万鉢計画が始まり、温室の増築も始めました。またこの年から販売の主力を量販店に切り替え始めたのです。
いま私の農場のランは、その約70%はスーパー、または量販店を通して売っています。それはこれらの店の流通コストが小売の花店などに比べて極端に安く、鉢植えのランを大量に動かすには便利だからで、また彼らは年間を通じて平均した量を安定した価格で動かす方策を知っています。またこれらの店は非常に幅広い客層を抱えていますし、また営業時間も極めて長く、24時間営業の店もたくさんあります。アメリカやヨーロッパでここ十数年で花の消費が極端に伸びたのは、花の小売が小売の花店から量販店にシフトしたのがなによりも大きな原因です。
私の会社の営業部員はわずかの4人で、それぞれが年間一人平均6億円以上のランを動かせるというのは、このような大口の顧客を抱えているからです。また相手は大企業ですので、売掛金の心配が無いというのも、私達には大きな利点です。
今後日本でも花の大衆消費を進めるためには、流通コストが安く、販売力を持った、量販店組織を相手に選び、協力関係を進めていくことが、非常に大切な事だと思います。
ランの第三次計画は2002年から始まりました。年産25万鉢のシンビジュームの栽培に10ha以上の施設の面積をとられるようになったのです。そこで私は用地総面積が約20haでカーネーションの古いガラス室が5ha建っているものを4億円余りで買い取りました。場所は将来、市街地になるところで、土地の値上がりを見込んだ投資でもあったのです。この年はこの5haのこの古い温室を手に入れたほかに、2haの増築もあって合計7haの温室が増えた年で、忙しい年でした。
2003年には年間販売量は2百万鉢を越えましたので、この年から私はランの栽培品目を最大限に増やし、新しい種類のランを消費者に提供できる体制を作り上げるために、世界中から新しい品種や珍しい種類を導入し始めました。
この様な多種目、大量生産が出来るのは、なりよりもまず経営規模が大きいことです。それと共に“競り売り”の無いアメリカで成功するにはまず量と種類を持つことと、スムーズな周年供給が出来ることが重要なのです。私が10年前にラン栽培を始めて以来、恐らくアメリカ全体では60以上の栽培者がランの栽培に取り掛かりました。しかしその大半は破産したり、店じまいをしたりで2〜3年で消えて行きました。また残っている業者のうちでも本当に利益の出しているのは極めて少ないのです。
その最も大きな原因は何かというと、まずその栽培規模がアメリカの流通システムに合っていないことです。アメリカ最大のスーパー、クローガーの総店舗数は2,400ですし3番のセイフウエイでも1,800店を持っています。その次の原因は、事業に対する計画性が無いことです。「もしうまくいったら事業拡大ができるだろう」というぐらいの計画では、アメリカの市場では成功する確率はゼロに近いのです。世の中はそんなに甘いものではありません。その次は経営能力のないことです。どんなに優れた計画があっても、それに十分な事業資金があったとしても、それだけで成功が保障される訳ではありません。物事を成功させるためには計画性はもとよりそれを遂行できる経営能力が何よりも大切なのです。
しかし、これと同じ時期にオランダのラン栽培業者が90%以上の確率で成功し世界一のランの生産基地を作り上げたのと比較するのは非常に意義のあることだと思います。オランダのラン栽培をリードしたのは「Floricultura」という会社です。彼らは世界中からオランダの環境で作りきれる品種を集め、それを体系的に整理して低温処理による周年開花の栽培体系を作り上げました。そしてドイツの「Hark」社のメリクロン技術を導入して大規模なランの培養育苗を始め、中苗を生産して安い価格で生産者に栽培技術と共に卸したのです。ソフトつきの苗なのです。ちょうど1950年代に「Yoder
Bros」がポット・マムでやったと同じ方式です。もうひとつは「Paul Ecke」が現在鉢花で世界一の生産量を誇っているポインセチアを広めたのもこの方法だったのです。ここから考えると日本のラン栽培の不振もアメリカのそれも原因ははっきりしてきます。いずれも事業の基盤が貧弱だということです。
私はラン栽培の三次計画までの達成のために約9億円の資金を準備していました。しかし5年経って予想以上の成果が見えてきましたし、金利が5%台と歴史的に低かったので土地への投資も兼ねて倍額の18億円にしました。これは私の総投資額に対する利益率が、将来も15%は見込めるとの予測がつけられたからです。
昨年からランの第四次計画が始まりました。一昨年隣接の4haを買い取りこれに3.2haの温室を建て増しました。この後の計画は、オランダの「Floricultura」社が私のすぐ近くで来年からランの育苗を始め、彼らの品種と苗が使えるのです。そこで私の農場のランの育苗の半分は彼らに任せて、そこで余ってきた温室と現在増築中の分を加えて、これらをランの開花室として使い、年間の生産量を一気に550万鉢まで拡大して、年間売上げを35億円、そして純益を8億円以上にまで伸ばす計画です。このためには今、東海岸に開花用の温室を建て、ここに半製品を送り込んで開花させ、積極的に東海岸の市場を開拓しようと準備をしています。
またこの第四次計画の一部として、昨年この農場の中に研究開発部門を開きました。単にラン栽培の拡張を進めるだけでなく更に一歩進んで栽培の効率化を図り、コストの削減とともに新品種の開発にも力を入れて市場開発を進めるためです。このために先ずニュージーランドからランの育種家のアンディ・イーストンを雇い入れました。もう一人はテキサスA&M大学で長年ランの栽培研究に携わっていた台湾人のワング博士です。この二人に助手をつけると年間経費は3千万円は超しますが、それでも総売り上げの1%そこそこですので、これはすばらしい投資になると取らぬ狸の皮算用をやっております。
ちなみに私の農場の昨年の売上げは28億円、純益はそれの24%で7億円を越しています。従業員は現在180ばかりの農場です。
私は今73歳ですがこの後27年は働く覚悟です。そしてこの花栽培であと100億円の純益を上げるのです。税金を払った後はこのお金は次の世代の教育資金として全額を地域に寄付するのです。これが私の夢のまた夢なのです。
D.松井奨学金財団
先ほども少しお話しましたように、私には4人の子供がいまして幸いにも全員がハーバード大学を卒業して大学院もすませまして、それぞれ良い仕事についています。学費は特殊な奨学資金以外は私が全額支払いました。そしてこの私の子供達は恵まれすぎているのでは?と思いました。野菜栽培で有名なサリーナス周辺もアメリカでは貧しい地帯なのです。勉強が出来ても大学教育を受けられない子供がたくさんいます。私の子供達も、もし大学に行けなかったら、きっと畑の草取りででも一生を送ることだったのでしょう。
10数年前に私が自分の遺書を書いたときにまず念頭にあったのはこのことでした。自分の子供たちにあげるのは教育費の全額で十分だった。だから私の死後、残った物はこの地域の貧しい子供たちの大学教育に使うべきだ、と書いてサインをして皆に公表したのです。しかしそれから10年近くたっても、この私はなかなか死にそうにもないんです。それにラン商売もよくなってきて億単位で払う所得税も気になり始めました。アメリカでは株式会社では純益の10%までは公共財団への寄付控除が認められているのです。そこで私は5年前に「松井公共財団」を作り、ひとまず毎年自社の利益の10%をこれに寄付して大学奨学資金制度をはじめたのです。
この松井奨学資金制度は:
1)各人に毎年1万ドルずつ4ヵ年、総額4万ドルを与える。
2)対象はこの郡内の5年以上の居住者。
3)GPA 3.00以上の成績の高校卒業生。
4)生徒の家族の総収入が6万ドル以下。
としました。2004年に1人の授与者から始め、今年は合計17名で、この5年間で合計42名、総額160万ドルになりました。
しかしこの松井奨学資金の将来の財源の主なものは、いま手持ちの216haの土地でこれの80%以上は都市開発用の指定を受けたもので、現在の見積価格は総額90億円以上となっています。この調子で奨学金をこれから30年間の内にあげ終わるとすれば毎年80人平均で合計2.500人がその対象となります。
何よりもこの奨学資金の目的は、私のアメリカでの第二の人生を支えてくれた人達へのお礼と、次の若い世代への私のささやかな再投資なのです。私は子供や孫たちには1ドルの遺産も残すつもりはありません。私が残したいのは、誰でも人助けが出来る立場に立ったときには、恵まれない人々のために尽くすことが人間にとっていかに大切なことかという考え方を、これを私の「遺産」として子供や孫に残してゆきます。東京でゴールドマンサックスの重役をやっている次女のキャシーは、私の奨学資金制度に感化されてか、今春開校されましたバングラデッシュの「アジア女子大学」設立のキーメンバーとして金銭的にも労力的にも頑張ってくれているのは嬉しい限りです。後の3人の子供たちも自分の仕事以外にも、いつかは恵まれない人たちのためにも働いてくれると確信しています。
2.日本の農業、世界の農業
A.低調な日本農業
日本の敗戦後63年たちましたが、戦後の食糧不足に対処するため、第二次大戦後日本政府は農協組織を強化しました。また農業の構造改善事業と銘打って、巨額の補助金で農家を囲い込み、五反百姓を基準にした食糧増産を進めてきました。しかし食糧が生産過剰になると、次は農工間の生活水準の格差を是正するというのに政策を鞍替えして、補助金のタレ流しをやったのです。この60年近い無謀な日本の農業政策は、日本の農業の国際競争力を無くし、消費者にも、財政にも大きな負担となってしまいました。
また、政府は“中央卸売市場法”などという世界でも稀な法律を楯に、生産者が生産物を自由に売る権利までも制限しました。そして結局は小さな農家を救おうとして、日本の農業全体を駄目にしてしまったのが、この63年間の日本の農政の結末だと言っても過言ではないと思います。
将来性のある日本の農業というのは、国内の極めて効率の高い他の産業に、ある程度は対抗の出来るものでなければ、将来性のある産業としての発展は望めません。日本の農業で、従事者の高齢化や、後継者問題が深刻になっているのは、根本的にはこの様な国内での他産業との経済競争に、効率の悪い、競争力の無い農業が負けているということなのです。そしてこの効率の悪い農業が日本の国民生産性を低くする原因にもなって日本の経済の足をひっぱっているのです。
アメリカには“DOLE FOOD”という農業会社があって、これが世界で一番大きな農業会社だと思うのですが、私たちの町にはその野菜部門とサラダの工場があります。そしてこの地域だけでも6千haの野菜栽培をしていますが、その99%の土地は借地なのです。この会社の年間売り上げは5千億円余りで、世界の90ヶ国にまたがり、3万6千人の社員と、2万3千人の臨時雇いを抱えているのです。
私たちの町サリーナスは世界的に有名な野菜の産地ですが、ここで独立して経営の出来る野菜屋というのは、最低面積で1,200haと言われています。激しい競争に勝ち抜いていくためには、組織も資本も他の業種に負けないものでなければ、生き残れない時代なのです。これは花卉園芸でも同じことで、このDOLE社は、また世界一の規模の切花園芸でも有名で、この切花部門だけでも4千人以上の従業員を抱えています。
このさき生き残れる先進国の農業というのはこのDOLE社のように流通を自前の物に出来るか、もしくは少なくても私の会社のように、流通を先導してゆけるだけの規模を持つかです。それらが不可能なら、グループ制度を確立して、益々大規模になっていく流通機構に対処できるようになることが先決問題だと私は思います。
いま日本では食料自給率の向上が騒がれ、またしても補助金をばら撒こうとしています。しかし日本の農業従事者の平均年齢が60歳を越している現状ではこれらも不発に終わることは誰が見ても明らかです。それでも政府は補助金さえ出せば自給率は上げられると考えている。過去30年、恐ろしいほどの農業補助金を使いましたが、日本の農業は衰退の一方ですし、自給率も下がる一方です。
たとえば、日本の農業で最も意識の高いと云われている農業生産法人、これの上位30社の平均売上げが僅か10億円というのは寂しい話です。いま最も重要なのは日本の農業を利益の上がる「産業」に変えることなのです。産業化されて日本の農業が若者にとって魅力のあるものになれば補助金で釣らなくても後継者は自然に出てくるのです。そして日本の農業が魅力のある産業になって、国民が安全な食料の保証が得られるとなれば、農業資金も自然に集まってきて新しい日本の農業は栄えるのです。
B.日本の農業の新しい形
日本の農業を今日の世界経済の水準まで上げるためには、何よりも先ず効率的な農業が営まれるように規模拡大をしなければなりません。そのためにはまず農地法を撤廃もしくは大改革して農地の解放と集約化をすることが急務です。しかしオランダの次に地価の高い日本の農地では主作物である米の生産を例にとっても、高価な農地を買い集めていたのでは世界の米市場で対抗できるはずがありません。そのためには農地の長期的な賃借が合理的にでき、大規模経営によって生産コストを世界のレベルに近づけられるシステムを作らなければならないのです。また最近増えつつある農業生産法人や農業に参入してくる企業を核として、山形県の「米沢郷牧場」などのような取り組みも、過渡期の形としては良い方法だろうと思うのです。
私達の町サリーナスの野菜栽培会社は4月から11月までは地元で栽培し、冬の期間はアリゾナ州のユマの砂漠に出作りに行きます。彼らは1万5千人の労働者とトラクターから収穫機械、25トンもある予冷の機械まで持って出作りにゆくのです。ユマはサリーナスからは900kmあり、これは奈良から岩手までの距離に相当します。彼らはこの様な形で合理的な周年栽培体系を作り、設備や道具の利用率を高めてコストダウンを計るとともに、自分の市場を守っていくのです。この様な方法を見習って、日本でも米作りや麦作りの大規模経営を行えば、現状よりももっと有利な穀物生産が国内で出来るのではないでしょうか?
またアメリカには企業農業がたくさんあります。サリーナスでも野菜を初めとしてイチゴ栽培にも大規模な企業や投資資金が参画しており、一般の農家と競い合っています。アメリカでは特に大資本を必要とする食肉産業や大規模な施設園芸には企業による農業が盛んです。しかし日本ではこの様な企業農業は毛嫌いされる傾向があり、前世紀的な日本の農協システムが先ず反対のノロシを上げます。
日本の農業を世界に通じる物にするためには、企業農業を奨励して資本投下を行なわせ、日本の農業を新しい形に変える以外には方法は無いと思います。いま日本の農業に必要なものは国からの補助金や前世紀的な農業行政ではなくて、近代的な農業を興す投資資金と新しいビジョンを持った農業者なのだと私は思うのです。
C.世界の食料事情
ここ最近世界的な食料不足と価格の高騰が話題になっていますが、これは農産物の名目価格が高騰し始めただけで、実質価格はまだまだ安いのです。世界中が騒いでいる最近のトウモロコシの先物価格を例にとれば、昨年の9月からブッシェルあたり3ドルそこそこから高騰を始め、約10か月間で7ドル50セントを越し、この間に先物での単価は2.5倍になったのです。そしてその後は、これとは正反対に1ヶ月半で50%価格を下げたのですから、この先物市場というものは如何に狂気相場をつけるものかが解ります。
そしてこの先物価格がメディアの好奇心に踊らされて、それがいかにも実態価格のように誤解して世界中が騒ぐのです。しかし先物市場というものは需要と供給で価格が決まるのではなくて、これは浅ましい人間の思惑によって値が付けられるものなのです。その上に有り余った世界の投機資金が乗っかるのですから、現物のトウモロコシを買って商売に使っている人々はたまったものではありません。
昨年からの急激な穀物価格の値上がりは、石油不足を補うために、エタノールを作ることにトウモロコシの主産国のアメリカが目をつけたからです。そこに金余りの世界の投資資金が目の色を変えて穀物の先物市場に飛びついたのです。その上にまたオーストラリアの旱魃が加わり、更にオイルの高騰がこれに拍車をかけました。しかしエタノールの原料はトウモロコシ以外にも、いろんな物が使えることが解って、今は気違い相場も正常に戻りつつあるのです。
今度の石油危機に比べればこの穀物価格の高騰はもっとやさしい問題なのです。なぜなら世界の穀物生産は価格に比例して生産を伸ばせる可能性は石油よりはもっと大きいからです。
このトウモロコシの実質価格を歴史的に見てみますと、今から50年、100年前の実質価格はその平均が現在の2倍だったのです。そして小麦の実質価格はこれよりもまだ高かったのです。この間の歴史的な穀物の値下がりは、第二次大戦後急激に膨らんできた巨額の農業補助金で穀物生産力を高めてきた、欧米の農業生産の拡大によって起こったのです。
もう一つ穀物市場で心配されていますのは、中国やインドの穀物需要の拡大が世界の穀物市場にかける圧力ですが、この両国とも人口の増加率は急低下しているので、世界の穀物に対する大きな心配は無いようです。
また最近のノースカロライナ大学のポプキン教授の興味のある報告では、世界の肥満人口は10億人を下らないということです。そしてこの肥満者は低所得者に多く、この傾向はまだしばらくは続くそうです。この世界の肥満人口の数は飢餓人口を大きく上回るもので、これは世界的に穀物の絶対量が不足しているのでは無くて食糧配分の不平等が問題だと私は思います。
しかしいずれにせよこの世界には今日67億以上の人間が住んでいて、今では毎年世界中で8千万人の人口が増え続けているのです。国連の予測では2050年には世界の人口は90億人を越して、このあたりで頭打ちになるだろうといっていますが、現実には80億人ぐらいで落ち着くのではないでしょうか。それでも私たち世界の農業者にはこの先30〜40年内に13億人分の食料増産を課せられていることは間違いのないことです。
それではこの今の日本の10倍に当たる13億人分の食糧をいかにして増産するかということですが、この先20〜30年のうちには栽培技術の向上によって、現在耕作されている世界の農地から30%は増産されるでしょう。また今後のバイオ技術などによる品種改良によっても20%ぐらいの増産は期待できると思います。それでもなおその残りの6億人分の食料を確保するための新しい農地が必要になるという計算になります。
しかし現実にはこの様なカロリー計算からの予想だけでは、世界の農業を見るのは間違っているでしょう。なぜならこの先、この世界は人口の増加に伴って経済発展が続き、人々は豊かになるのです。そうなれば人間はパンや米だけでは満足してくれません。生鮮野菜に果物、酪農製品、そしてビールやワインなどの消費が伸びるはずですから、これらを栽培や飼育する農地がその上に必要になってくるのです。
D.日本の食糧自給率問題
日本の食糧の自給率向上問題は、特に今度の穀物の世界的な暴騰によって関心が高まり、そのために農業補助金を増やして、5%の自給率の向上を図るべきだという意見が力をつけているようです。これのために政府が「農地のための不動産仲介組織」を来年度は全国に500箇所作って、10アール当たり1万5千円の助成金をバラ撒いて農地の集約をするという新しい計画が出てきました。ですが、実際これによってどれだけの実質的な効果が上がるかは眉唾ものです。と言いますのは、そもそも助成金に釣られて貸しに出される農地は、広い大きな田んぼではなく、主に、狭くて借り手の無い土地が出てくるはずです。こんな土地が幾ら集まってきても、それは助成金のたれ流しで意味をなさないからです。今の日本にとって集約農業は大事な物ですが、この方策だけで本当に日本の農業が蘇えるという保障はどこにもないのです。少し頭を冷やして考えて見ましょう。日本にはそもそも効率よく使える農地は極めて少ないのです。日本の1戸当たりの耕地面積は僅かに1.8
haで、フランスのそれは日本の25倍、イギリスは31倍、そしてアメリカはなんと100倍なのです。このことが日本の農業の究極の問題点なのです。農産物、特に穀物の単位面積当たりの収穫高は知れたものです。何とかして労働生産性を上げる方策を取らなければ外国の穀物生産の足元にも寄り付けられないのです。
例えば日本の岡山とカリフォルニアとの米の生産を比較してみますと、その生産コストには10倍の開きがあります。もしこの岡山の米作を農地の集約化で現在の10倍の、20haぐらいの規模にすれば恐らく生産コストは半分近くにはなるでしょうが、そうなってもこれはカリフォルニアの米作コストの5倍なのです。ですからこのコストを2倍ぐらいに縮めようと思うなら、日本の米作農地の集約化によって平均で300haの規模にしなければならない計算になりますが、こんなことはどう考えても不可能です。
助成金を使っての農地集約は、今の政府案の10アール当たりの1万5千円の助成金に、500の事務所の経費が加わるのですから、恐らくそれらの合計のコストは10アール当たり3万円ぐらいになりそうです。ですからこの方法はその効果が確実な地帯だけに限られるべきで、それ以上に広げることは慎まないと、成果はマイナスになります。
それでは他にどんな方策があるかと聞かれれば、私は農業の国際化をお勧めします。例えば三井物産がブラジルで提携しているマルチグレイン社の耕作面積は11万ha以上です。ここで大豆やトウモロコシなどを作って外国に輸出していますが、その生産コストはアメリカの4分の3、日本の10分の1以下だと聞いています。どんなに日本の国内で補助金をつけても生産コストはこの様な競争相手の5倍以上もかかるのです。そしてこの様な未開の豊穣な農地は世界中にはまだ何百万haと眠っているのです。
ブラジルとアルゼンチンの友人達に聞いてみたのですが、両国での穀物生産農場の開発費用は場所によってまちまちのようですが、1万ha単位での開発なら恐らく10アール当たり2万円以下で出来るだろうと話しています。この様な土地で穀物生産が出来るのであれば、高いコストを掛けて国内の農地の集約をやるよりは日本の政府にとってもすばらしい将来への投資になる筈です。
幸い日本には使いきれない大金が眠っています。日本の商社はすでにアメリカやカナダ、オーストラリアなどでも積極的に農業にとり組んでいます。皆さん方のように外国の農業を知っている人達が中心になって、この様な新しいアイデアで世界に出て行って、外国の農地と労力を使って日本の食糧の自給問題の解決のために一肌脱いで見てはいかがでしょうか?特に日本人が好むような有機農産物を生産しやすい、湿度の低くて、労賃の安い適地は世界中にはたくさんあるのです。この狭くて湿度の高い日本の農地で出来る物だけで、日本の食糧自給率を上げなければならないという制限はどこにもないのです。
今後、日本農業が目指さなければならないのは、この狭い日本の国だけの為に食料自給を考えるという、いわゆる狭い意味での食料自給ではなくて、広く国際的な視野に立って世界の食料問題をも同時に解決に導くような新しい方策を立ち上げるべきです。そして、そこから自然に日本の食糧の安定確保を作り上げてゆく方法が一番正しい方法だと思います。
そのためには先ず5ヵ年計画として国内の農地の100万haの集約化を進めましょう。そうすれば日本の農業の生産性も20〜30%は改良されるでしょう。農業収益が見込めない農地は集約せずに休耕させることです。それと並んで、北米と南米、それにオーストラリアなどで200万haの新しい農地を造成し、農業生産を始めれば、ひとまず日本の食糧確保の問題は解決されると思います。こうすれば日本の食料のコストも現状よりは最低20%は安くなるだけでなく、日本人の好む食の安全性が向上されると思われます。
200万haの新しい農地と聞けば、とてつも無い面積のように聞こえるかも知れませんが、世界の他の国が動き出すまでにこの事業を始めれば、そんなに難しい仕事ではありません。世界地図を広げて見ればわかります。この地球の上では200万haというのはこれは僅かな農地なのです。公共事業が縮小された日本にはこの様な開拓事業や水利事業向きの土木業者や機械類があり余っているのも幸いなことです。
このような日本人が主導する外国での食料開発の事業は、単に世界の食料問題の解決への助けとなるばかりでなく、発展途上国の経済開発援助のためにも大きな意義があるはずです。昔日本が台湾を統治したころ、莫大な予算で台湾に水利ダムを作り台湾の農業開発の基礎を作った話を聞かれた方も居られるでしょうが、このような善意が長く両国間の関係を良好に保っていく基礎を作ったのでした。
この様な外国での農業開発というものは何も目新しい話ではありません。1900年初頭から始まったハワイ移民は、日本人によるハワイのサトウキビ栽培の開発から始まりました。その次に始まったブラジル移民やカリフォルニア移民は農業開発移民だったのです。特にサンパウロを中心にしたブラジル移民は、この国の農業開発に大きく寄与し、今日でもそれが綿々と続いています。
また昭和の初頭からの満州国の開発は農業のみならず、新しい国を作る仕事であり、日本人はこれに大きな成果を上げました。
更にまた日本国内でも明治の初期からは北海道開拓という大きな仕事を始め、これも成功させています。
これらの例からみても解りますように、日本人は歴史的に農業開発で世界に大きな貢献をしているのです。
しかしいま私が提案しています中南米を中心にした新しい農業開発は、昔のような苦悩に満ちた命がけの開発ではなく、もっともっとスマートで近代化されたもので、短期間で成果が見られる新しい形のものなのです。そして今の日本にはこれを成功させる経験と知識、それに資金が整っています。
この様な新しい国際農業開発は戦後60年、日本の農業がやってきた前世紀的なものには比べられないような優れた物であり、安定した新しい形の日本の食料自給の源を作り上げるとともに、更にまた国際協力の一環としても大きな意義を持つものです。
日本は今、幸いにも莫大な金融資産を抱えています。そして日本では「国家ファンド」創設が話題になっています。しかしこの様な巨大なファンドを作っても、それが単なる国際的なマネーゲームに使われたり、またつまらんサブプライムローンなどに手を出して火傷をして、この虎の子を潰すようでは国の将来のために何の発展も望めません。この国の将来のためにも、日本の自国の食料の確保だけでなく、広く世界の人類の将来の食料確保のためにこの「日本国家ファンド」でまず第一番に「国際食料開発公社」を作り、21世紀の世界の80億の人類の食料確保のために一汗流す方法を我々の力で、真剣に考えようじゃありませんか!
−おわりー
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